これは僕が小学6年生の頃の話だ。
僕は、親友を助けた……つもりだった。それがまさか、こんなにも恐ろしい結果になるとは夢にも思っていなかった。
ある日、用事を済ませ、教室に戻ると、けたたましい女子の声が教室中に響き渡っていた。明るくて活発な佐藤さんが、少々内気で優等生の孝宏くんに向かって叫んでいた。よく見ると佐藤さんの左手には万年筆が握られている。
佐藤さんの口から発せられている言葉を要約すると、どうやら孝宏くんが佐藤さんの万年筆を壊した、とのことらしい。そういえば佐藤さんは、「おじいさんから貰った大切な万年筆」と言って、クラス中に自慢していた。それだけ、彼女にとって思い入れの強い物なのだろう。
孝宏くんはと言うと、佐藤さんのあまりの勢いに、黙って俯いてしまっている。僕は、今にも泣き出しそうな親友を見て、黙っていられなくなった。
「佐藤さん、ちょっと落ち着いてよ。孝宏くんが可哀想だよ」
「何よあんた? こいつを庇うっていうの? こいつは私の大切な万年筆を壊したんだよ。だから絶対に許さない!」
佐藤さんが怒るのも無理はない。僕だって自分の大切にしているものを傷付けられたら黙っていられない。だから僕は、自分の大切な親友がこれ以上傷付いてしまう前に、彼女のことを制止したかった。
「違うよ。その万年筆、僕が壊したんだ!」
ずっと俯いていた孝宏くんがびっくりした様子で顔を上げた。僕はそんな孝宏くんに向かって小さく微笑んだ。
「そうだよ……僕じゃない! こいつが壊したんだ」
「……えっ?」
僕は思わず小さく声を漏らしてしまった。僕は孝宏くんを大切に思っていたからこそ自ら矢面に立った――にも関わらず、彼は僕に対して1ミリの配慮もない言葉を言い放った。辺りを見渡すと、それまで傍観していたクラスメイト達から、僕に対する良くない言葉が飛び交い始めていた。
「えっ? 佐藤さんの万年筆、亮太郎が壊したの?」
「亮太郎サイテー!」
「そりゃそうだよな。あの優等生の孝宏くんがそんなことするわけないよな!」
僕は孝宏くんのように優等生でもないし、人気者でもない。クラスメイト達の口ぶりから一層それを実感して悲しかったが、一先ず親友を庇うことができたことに小さな達成感を抱いていた。
休憩時間が終わり、担任教師が教室に入るなり、教室中の異様な雰囲気を察したのか、「何かあったのか?」とクラス全体に向けて言った。
「先生、亮太郎くんが佐藤さんの万年筆を壊したんです!」
「何? おい林! それは本当か?」
「……はい。すみません」
「放課後、職員室に来なさい!」
放課後、職員室に行き、担任教師に声を掛けると、「場所を変えよう!」と言われて、会議室へと移動した。長方形型に並べられた長机に沢山の椅子が並べられている。普段、大人数で使用されていることが一目瞭然だった。そんな普段の様相とはかけ離れた二人だけの空間に、思わず息を呑む。
「林! 何で佐藤の万年筆を壊したんだ? 喧嘩でもしたのか?」
「いえ先生、本当は僕じゃなく孝宏くんが壊したんです。でも僕は、親友の孝宏くんを庇いました」
僕は事情を知らない担任教師に真実を話した。しかし、返ってきた言葉は、信じられないものだった。
「おい林! 人のせいにするなんて人間として最低だぞ! あの孝宏がそんなことするわけないだろう!」
僕の頭に、目の前の担任教師が道德の授業中に「人を見かけで判断してはいけません!」と声たかだかに言ったシーンがフラッシュバックした。それと同時に、教師も平気で人を差別する生き物なんだということを思い知らされた。
「いや……僕は嘘を吐いていません!」
「それがもう嘘なんだよ。仮に孝宏が本当に壊したとして、お前が自分が壊したと皆の前で嘘を吐いたことになる。そんな嘘吐きの言った言葉を誰が信じられる?」
「……でも、僕は……」
「まあいい。孝宏にも一応確認しておく。ただ、覚悟しておけ」
翌朝のホームルームで、僕は担任教師から信じられない言葉を聞いた。
「えー、昨日、佐藤の万年筆が壊された件だが、林と孝宏の両方にヒアリングした結果、林が壊したということが分かった。皆も極力、自分の持ち物は注意して持ち歩くようにしてください。以上!」
僕は担任教師の言葉よりも、孝宏くんが真実を語ってくれなかったことにショックを受けた。親友だと思っていた彼は、自分可愛さに僕のことを売った。自分さえ良ければ僕が傷付いても構わない、そういう心の持ち主だということを知ってしまったことが、何よりも悲しくて歯痒かった。
その日以降、クラスメイト達からのイジメが始まった。僕が近くを通るだけで避けられたり、「亮太郎菌」や「林ウイルス」などといった悪口を言われることもあった。ちょうどコロナウイルスが流行っていた時期でもあったので、より一層僕の心は傷付けられた。
僕はそれでも学校に通い続けた。僕には不登校の従兄弟がいたので、家族に心配をかけてはいけないという子どもなりの使命感もあった。幸か不幸か、佐藤さんの万年筆の件を学校から親に知らされることはなかった。そのこともあり、僕は家族や学校外の人間の前では普段以上に元気な姿を演じていた。
「亮ちゃーん!」
そんな辛い毎日を過ごしていたある日、駅で僕に抱き着いてきてくれた子がいた。従兄弟の家のすぐ前の家に住んでいるしいなちゃんだ。僕よりも5歳年下のしいなちゃんは、年齢の幼さもあって、時折駅で会うとこうして抱き着いてくる。決して嫌ではないのだが、人目が気になることもあって、普段はすぐに引き離していた。ただ、この時ばかりは人から避けられる日常を送っていたこともあって、彼女の無邪気さが嬉しくて仕方なかった。
そんな僕の異変を察したのか、さきちゃんは僕の顔を覗き込みながら問いかけてきた。
「亮ちゃん、何かあった?」
「えっ? どうして?」
急に核心をつかれて、僕は焦った。女の勘というものは、こんなに幼くして備わっているものなのか、と驚かされた。
「何か元気ないから」
「いや、全然元気だよ。ほら!」
僕はそう言いながら、わざとらしく大魔神のポーズを取った。目の前の少女に心配をかけてはいけない。そんな陳腐な男としてのプライドが、当時の僕にも備わっていた。
「亮ちゃん大丈夫だよ。ヨシヨシ」
公衆の面前で、僕は幼い少女に思いっきり頭を撫でられた。僕は無性に恥ずかしくなった。5歳も年下の少女に頭を撫でられたこと、それよりも5歳も年下の少女に心配をかけて気を遣わせてしまったことが、何よりも恥ずかしかった。
僕は決意した。絶対に誤解を解いて、この問題を解決してやる、と。
しかし、解決には証人が必要だった。僕一人の証言では、誰も信用してくれない。僕の主張を証明してくれる人、あの時、僕が教室にいなかったことを証明できる人がいないだろうか、と頭の中で模索した。
残念ながら何の心当たりもなかった僕は、イジメの延長で、欠席したクラスメイトの家に提出物を届ける役目をあてがわれた。随分と僕の家から遠い場所に住んでいるクラスメイトだったのだが、担任教師も何の疑問も持たない様子だった。
1時間近くかけて欠席したクラスメイトの家に辿り着くと、玄関で本人が出迎えてくれた。提出物を渡したらすぐに退散するつもりだったのだが、意外にも彼女は、「上がっていって」と言った。
学校を休みがちの彼女とは、特に親しくもなかったので、少し驚いた。しかし、何故だかその時は、彼女の申し出を断る気になれなかった。
「ウチ、この時間は誰もいないから気を遣わなくて大丈夫だよ」
「うん、ありがとう。でも近藤さん、何か用でもあるの?」
「用?」
「うん。だって、あまり話したことないよね?」
「……うん。話したことないし、友達ってわけでもないけど、知ってる人が濡れ衣を着せられているのは見ていて気持ち良くないからさ」
「……えっ?」
「万年筆壊したの、林くんじゃないんでしょ?」
彼女の口から発せられた真実に、僕は驚いた。僕以外、教師でさえも真実を口にしてくれる人はいなかった。それが目の前にいた。そのことを思うと、僕は感極まって泣きそうになった。
「おいおい、泣くのは早いよ!」
「……泣いてないよ」
心の中では嬉しさから泣いていたが、物理的に涙は零れていなかったので、僕は彼女の言葉を否定した。
「……でも、誰も信じてくれないし、僕の無実を証明してくれる人がいないんだ。だからどうしようもない」
「えっ? 証人いるよ?」
「何処に?」
「ここに!」
僕は彼女の言葉の真意がさっぱり分からなかった。
「林くんと私、実は同じ国語係なんだよ。だからあの日、私珍しく登校してたからプリントを提出箱に入れるのを手伝おうとしたんだけど、林くんさっさと提出しに行っちゃったからさ、後を追いかけたんだよ。だからあの時、林くんが教室にいなかったことは証明できる。私の出席は記録してあると思うから私の証言は信憑性あるでしょ?」
彼女の口から飛び交う言葉に唖然としてると、彼女はニッコリ微笑みながら言葉を続けた。
「こう見えて私、女の子の友だち多いんだよ? だからきっとみんなの誤解を解くことができるよ」
彼女の言葉に、僕は思わず声を上げて泣いてしまった。そんな僕に対して、いつかの5歳年下の少女と同じように彼女は「ヨシヨシ」って言いながら頭を撫でてくれた。
翌日、近藤さんの証言によって僕の誤解は解かれた。担任教師はいかにも形だけ、といった様子で謝罪してきたが、僕の心には何も響くものはなかった。
これが、僕が辛いイジメから立ち直ったきっかけだ。暗い毎日に光を射してくれたさきちゃん、僕の濡れ衣を晴らしてくれた近藤さん、この二人がいなければ、今の僕はありません。ありがとう。もしこの先、二人に何かあれば、あの日、孝宏くんにしてあげたように、僕は迷わず矢面に立ちます。
自分の生き方に後悔しないように。 |